飛騨の山里で育ち、名古屋へ出た青年が、中学時代の恩師N先生へ綴った一通の手紙。一九七〇年代、大阪万博が開幕した春のことでした。先生はワラビやゼンマイの萌える里山を愛し、カエルの白い腹にさえ命の重さを見た人でした。やがて先生は自ら命を絶ち、手紙は届かぬまま半世紀以上が過ぎます。老いた教え子が秋の村道で先生と再会するまで——飛騨の風土と方言が織りなす、魂の往還の物語です。
第一章 万博の春、書店の棚のまえで
N先生、ご無沙汰いたしております。お変わりありませんか? 田舎者も名古屋での会社勤めにもようやく慣れました。
昨日から大阪万博が始まりました。世間は万博一色です。ぼくは大阪までいくお金も気力も、興味もありませんので、万博記念のウイスキーをやりながら、「こんにちはー。こんにちは」と口ずさんだりしています。
今日は久しぶりに書店に行きました。先生のおかげで興味を持つようになった、化石に関する本が並んでいる棚のまえで立ち読みしていると、心がとつぜん体を抜けだして、谷川の深みにひきずり込まれるように、過去へとさ迷っていったのでした。
中学では理科が理科Ⅰの化学系と、理科Ⅱの生物系の二分野に分かれ、算数は数学に変わって、詰襟の感触とともに、中学生になったことを実感したものでした。
二年生のときの担任が、理科ⅡのN先生でした。
食事はちゃんととっておられるのかと心配になるほど、痩せていらっしゃいましたね。四十まえの独身とのことでしたが、四十半ばにも見えました。鼻の高さがめだつ肉のうすい顔で、相手と目を合わせるのが苦手そうにいつも伏し目がちでした。
気が弱そうに見えました。でも、ホームルームのときや授業の合間の雑談などから、先生には長いものに巻かれるのが大嫌いな男っぽいところのあることが、伝わってくるのでした。
ほかの先生たちとの話に加わりもせず、整頓された机のまえにぽつんと座っておられた職員室での姿が、目に浮かびます。
よくタバコを吸っておられましたね。とがった鼻先をマッチの火で光らせながら、さびしそうに顔を傾けてタバコに火をつけてましたよね。幼なじみの浩美は、「N先生を、腹が痛うなるほど笑わしてやりてえなあ」と言っていたものです。
先生の話し方、身ぶりや表情、お話の内容などを、頭が痛くなるほど集中して思い出しながらこれを書いています。間違っているところは堪忍してくれんさい。
第二章 窓の外の声——授業中の不思議な語りかけ
二学期のなかごろでしたか、授業中、先生はとつぜん黙りこんでしまわれました。二階にある教室の窓の外を、長いあいだみつめておられた先生は、
「そこの杖ついてござるじさま、足もとわるいで転ばんよに気いつけてくれんさいよ」だれもいない外に向かって話しかけておられましたね。「木の葉の気孔はいつ開くんやったな? 炭酸同化作用に、エラ呼吸の仕組みは頭に入ったか?
川の魚も海の魚もおなじエラで呼吸しとるで、いじらしいもんやさな。海の魚は塩辛いなんていわんずに、元気に海の水吸って生きとるんやもな。海からどえれえ離れたこの村の川にも、海のハゼそっくりのドテカブやチチカブがおるってのは、まさに進化の不思議ってとこや。おりが子どものときから変わらんしと、川の底でかわええ口をぱくぱくしながら生きとるんやもな。頭なでてやりてえさ。この、口ぱくぱくがエラ呼吸やでな。
畑帰りのばばさま、こんにちは。胃の調子がわるいってことやったけど、いまはどやな? ちょっとでもおかしいなと思ったら、お医者さんに診てもらうんやよ。高山の加川病院の内科の先生はおりの高校時代の同級生やで、おりに言ってくれんされば、いつでも紹介してあげるでな。
みんな、胃から出る消化酵素はなんていうのかおぼえたか? どんなことでもええで、質問はねえか?」
窓の外にだれかいるかのように、長々と語りかけておられましたね。それが冗談なのか先生にとっては本当のことなのかわからないまま、先生を見守っているしかありませんでした。みんなもポカンとして、おかしな感じに静まり返っていたものです。
第三章 最後の授業——黒板いっぱいの言葉
三学期から、先生は休職されることになりました。
最後の授業のときのことです。ぼくたちにむけた先生の目から、涙がとめどなく流れ落ちました。涙もふかずに教卓の端を両手でつかむと、ぼくたちに謝っているみたいに下をむいたまま、話しはじめられましたね。
おりはな、ほんとは春風なんやさ。ワラビやゼンマイの渦巻き頭でいっぱいの、日当たりのええ春の山で一人遊びしとる、薄緑色のそよ風やさ。風呂場のまえに植わっとった沈丁花の香りでもある、と言ってもええかな。人間のかっこうしとるけど、こんな体なんかどうでもええのよ。もともとおりは、心だけの存在みてえなものなんやでな。
ミカン箱に何箱も集めた、縄文土器の欠けらと言ってもええな。何千年もまえの人が打ち欠いた跡の残っとる石器でもええ。何千年単位の昔の人たちがこの地で生きるために使った道具が、おりの手のなかにあるってことが不思議やし、握っとるとだんだん温とうなってきて、縄文時代の人たちの手の温もりに思えてくるんやさ。涙が出るほど懐かしいのよ。何千年ぶりに身内と再会したみたいな気がするんやさな。
品漬けやころ芋、煮た漬物(くもじ)もええなあ。いつ見ても青あおしとるピーピー菜も、悩みなさそで惹かれるなあ。
おりは、五月の子どもの日に風呂に入れた、根元の薄赤いショウブでもあるんや。根元の割れ目のあるとこを横にくわえて吸うと、ショウブのええにおいといっしょに、ヒヨドリの鳴き声みたいな、年に一度の五月五日の音がしたもんや。男子はよう知っとるろ?
ゴンボやシイタケにアブラゲ、ニンジンの入った味飯や、ばあちゃんが揚げてくれた、あのさくさくしたアズキナの天ぷらでもええさ。生まれ育ったこの地に関係のあるもんやったら、自分をどんなもんに例えてもうれしいし、満足なんやさなあ。
このN・Sは、春風に乗って空中ただようタンポポの綿毛、もしくは月をかくすむら雲やでたのんます。ちょっとばかし気取った言い方しりゃ、山奥で人知れず舞い落ちるもみじ葉ともいえるかな? 人知れず舞い落ちるってのは、味があるんでなかろかな?
ええか、みんなの勉強のために解剖されたカエルの腹は、雪より白かったろ? カエルは心がきれいやもんで、あんに白い腹しとるんでないかと思うんやさな。元気ぴんぴんで、田んぼでもっとゲコゲコ話し合っとりたかったやろに、騒ぎも泣きもせんずに口をへの字につぐんだまま、麻酔もかけられんしと腹を裂かれて、おりたちのために腹のなかにあるものを見せて死んでくれたんやで、たまには心のなかでええで、冥福を祈ってやってくろよな。人間の命も動物や植物の命も、重さはおんなじなんやでな。
ミトコンドリアや、顕微鏡でのぞいた酢酸カーミンで薄桃色に染まった、ムラサキツユクサの細胞のことも、忘れんようにな。動物も植物も、あの実験のときまでは生きとったんやでなあ。そやそや、植物の細胞の外側には細胞壁があるってことも、忘れんようにしてくれよ。
短い間やったけど、あんたたちといっしょに勉強できたのも、なんかの縁です。地球には数えきれんほどの人間がおるけど、たまたまおなじ中学で、おなじ教室で、こやってみんなといっしょに勉強したり遊んだりできたことは、よっぽどの縁やさ。奇跡と言ってもええさ。いつの日か、みんなで仲良う化石にならまいか!
何万年後、何十万年後にまんだ地球があるか、人類が存在しとるか知らんけど、岩の中からみんなでそろって発掘されたら、さぞうれしかろうも!
下を向いたまま筋ばった手で教卓の両端をつかんでおられた先生は、体をひるがえしてチョークを手にとると、いつものように時間がなさそうに体を揺らしながら、黒板をきしらせてお書きになりました。
他人も自分。自分も他人です。
お互い元気でいるのが、
なににもまして大切です。
健康第一!
みなさんがそれぞれの場所で
元気で生きているだけで、
たいしたものです。
喜んだり、怒ったり、哀しんだり、
楽しんだりできるだけで、
立派なものです。奇跡です。
元気で暮らせるだけで、
人生御の字、祝い事!
みなさんの健闘を祈ります。
人間到る処青山あり!
行く末のご多幸を祈ります。
命をたいせつに!
昭和三十八年十二月十六日 N・S
書かれた言葉は、黒板の端からはしまでありました。こちらに向き直った先生は、いつものしぐさで手のひらを打ち合わせてチョークの粉を払うと、ぼくたち一人ひとりを目に焼きつけようとするみたいに見わたしながら、さらにおっしゃいました。
若いのも、ほんの一瞬です。あっと驚いとる間に歳とってまいます。おりやったって、つい昨日まであんたたちとおなじ中学生やった気がするんやに、はや四十近い歳になってまいました。あんたたちゃ、いまのうちから、勉強でも運動でも好きなだけ打ちこむことや。これからの長い人生、一日一日をじっくりと楽しんで、後悔せんように生きていってください。
みんな元気でな。まんだずっと先のはなしやけど、みんながじさま、ばばさまになって死んだあとも、また、みんなで会わまいか。こんに仲良うしとった者どうしが、死んだら会えんようになってまうなんてばかな話が、あってたまるかよ!
語り終えた先生は、それまでの話の内容や話し方にはそぐわない、これまでの話を冗談にしようとされているような、浮き上がった笑い声をあげられました。これまでの先生の言動は、ぼくたちをからかうお芝居だったのか、と疑ったくらいです。
教室は静まり返っていました。いつもはちょけてばかりいるゴンゾでさえ、ひと言もしゃべらずに先生の顔をみつめていましたーー。
第四章 先生の死と、残された言葉
それから二年後、先生はみずから命を絶っておしまいになったのでした。
黒板に書いてくださったことは、ノートに書き写してあります。「命をたいせつに!」とあるのに、なんで自分から死んでまわはったんですか? ぜんぜん納得がいかんのです。
ぼくは仕事の都合でふるさとを離れましたが、折に触れてあの懐かしい山や川、学校のたたずまい、教室のことを思い出しています。先生のことは、言うまでもありません。
一年にも満たないおつき合いでしたが、小学校から高校までの先生のうちで、N先生がいちばん心に残っています。先生のように、身内もおよばないほど親身に生徒に接してくださった教師を、ほかに知りません。体調が悪そうなときでさえ、真剣に向き合ってくださいましたね。
中二になったばかりのころに母が亡くなったとき、先生は、「おりも中学生のときに、おっ母さんが死なはった。大好きやった。おめの気持ちは自分のことみてえにようわかる。どんなことでもええで、なんかあったら、遠慮のういつでも相談しに来るんやぞ」目を赤うして言われました。
ぼくたちのことを、自分自身のことのように考えていてくださることがわかっていたから、みんな先生が大好きでした。お年寄りや子ども、病気の人たちにとりわけ親切だった先生と話していると、心が温とうなってきて、力がわいてきたものでした。
さびしいとき、なにかがうまくいかなかったとき、先生のことが心に浮かんでくるのです。「お久しぶりです。お元気ですか?」生きておられたころと同様に、問いかけたくなるのです。「おかげさまで元気や。おめも元気か?」声が聞こえてくるのです。
ぼくたち生徒はみんな元気ですよ。お盆や正月に顔を合わせると、きまって先生のことが話題になります。なんで自分から死んでまわはったんやろって。
生意気な物言いをお許しください。先生が唯一間違われたのは、自分から死んでまわはったことです。あんなに語り合ったぼくたちと話ができない世界に、みずから行ってしまわれたことです。休職されるときに黒板にお書きになった、「命をたいせつに!」という言葉を、みごとに裏切ったことです。お話しされたことや、黒板に書かれたことが、ぜんぶウソっぽくなってしまいました。
カエルや植物の命にさえ思いをはせておられた先生が、かけがえのないご自分の命を、どうなさったのですか!
ひとつしかない命をかけてまでして遂行された行為に、他者が勝手なコメントをするのは、傲慢いがいの何物でもないことはわかっています。そうであったとしても、この悔しさと残念な気持ちを先生にぶつけずにはいられませんーー。
高校生のころまではそう考えていました。いまはすこし考えが変わりました。一つしかない命を、みずから絶ってしまう行為を、否定する気持ちには変わりありませんが、先生はご自分の命と引き換えに、ぼくたちに命の尊さ、大切さを、なによりも強く教えてくださったのだ、と思うようになりました。先生ご自身は、ぼくたちに命のかけがえのなさを教えようとして、命を絶たれたわけではないと思います。確かなことはわかりませんが、ご病気のせいだったのでしょうか。
哀しいきっかけではありますが、ぼくたちは、結果的に先生の死によって、先生のお残しになった「命をたいせつに!」という言葉を、心の深いところで受けとめているのです。
みんな、最後の授業のときのことを、はっきりおぼえていますよ。
「先生の分まで生きてくぞ!」
集まる機会があるたびに、だれからともなく飛びだす締めの言葉です。自分のことしか考えていない人間が増えたと言われる今の世の中で、いつまでも話題になる教師は限られていると思います。先生はその限られた最高の教師の一人です。
あと十年もしたら、先生のことが話題になることも今ほどではなくなるかもしれません。年を重ねていくうちに、先生のことを忘れていることのほうが多くなるかもしれません。
日々の暮らしに追われて、中学時代の思い出も遠くなっていくのかなあ、と寂しくなったりもします。
でもぼくは、そんな考えが浮かぶたびに打ち消すのです。母が亡くなったときに、「何かあったらいつでも相談に来い」と言ってくださったときのいたわりのこもった眼差しを、忘れるわけがありません。先生はあの教室や、あの川や、あのワラビやゼンマイの里山で、いまも生きておられるのです。
とりとめもなく書きました。アジア初の万博記念のウイスキーに、酔ってしまったようです。
先生と飲みたかったです。またいつか、お会いいたしましょう! きっとですよ。そのときは化石の話を聞かせてくださいね。
では、失礼いたします。
第五章 半世紀を越えて——秋の村道での再会
中二だったわたし棚田武雄も、七十半ばを過ぎた高齢者になりました。四人の孫のじいちゃんです。会社を定年退職してからは、妻(あのころおなじクラスだった浩美です)と故郷にもどって、のんびりと畑仕事をしています。
先生のことはいつも心にあります。命もたいせつにしていますよ。
先生を思い出すと、ワラビやゼンマイでいっぱいの日当たりのよい春の里山で、地面に寝転がったり風になって空を飛んだり、一人遊びしておられる先生の姿が浮かんでくるのです。
老いて物忘れがひどくなったときのために、いまのうちに意識の奥深いところに叩き込んでおこうと、先生のことが心に浮かんでくるたびに、声に出してこう言うのです。
「いっしょに化石になりてえです」
先生が言わはった言葉もまねします。「みんなで仲良う化石にならまいか!」
二、三日まえのことです。こんなことが本当にあるのか! と腰を抜かすほどうれしいことがありました。
不整脈で町の病院に行こうと公民館まえのバス停のベンチに座っていたら、さわやかな秋の陽射しに照らされた村道を、こちらにやって来る先生に気がつきました。
先生のほうが遠くからわたしに気づいておられたらしく、にこにこ笑ったまま歩いておられます。わたしは立ち上がって、こちらに来られるまで待っていました。うれしさと懐かしさで足がガタガタ震えておりました。
先生は満面の笑みで片手をあげると、ベンチのとなりに座られたのでした。お亡くなりになってから半世紀以上もたっているにもかかわらず、自分でも不思議なのですが、わたしはぜんぜん驚くこともなく、中学生のときと変わらない気持ちで、語りかけていました。
「先生! お久しぶりです! まさかまたお会いできるなんて思っとらなんだです。うれしいなあ!」
映画のオーバーラップのように半透明の先生に向かって、懐かしさに溢れて語りかけた途端に、先生もわたしも、本当にここにいるのだろうか? とんでもない夢を見ているのではないのかという思いに、全身が包み込まれたような気分になりました。でも、すぐにそれを振り払いました。これは現実でした。
「おりより老けてまったけど、棚田も元気やったけ?」あの頃のままの声と表情でした。
「おかげさまで体だけは丈夫やもんで、何とかやっとります」答えたのと同時に、今度はうれしさに全身が包み込まれていました。
「なによりや。そのちょうしやぞ。あのころとぜんぜん変わっとらんなけ。懐かしいさ」先生こそあのころのままで、生きてござるとしか思えません。わたしは完全に中二の悪デッチ棚田でした。
「みんなで仲良う化石にならまいか! やもな。最後の授業のときに先生が言わはったこと、いまでもよう憶えとります。先生も憶えてみえますか?」
「おう。よう憶えとるぞ」
「前から思っとったんやけど、化石になるときは、亡くなった両親や、今の家族も入れてもらえんですろか?」
先生はちょっと驚いた顔をされましたが、うれしそうに首を傾けると、マッチを擦ってタバコに火をつけられました。わたしよりずっと若いあのころのままの先生が、
「涙でるようなこと言ってくれるでねえけ。よしわかった! おめの家族もいっしょや」吐き出す煙といっしょに言って、目を伏せたままうれしそうに笑っておられるのが、こちらこそうれしゅうてどもならなんだです。
飛騨弁・方言の解説
| 飛騨弁 | 意味・標準語 |
| 堪忍してくれんさい | 許してください・勘弁してください |
| おり | わたし・俺(一人称) |
| どえれえ | ものすごく・とても |
| かわええ | かわいい |
| 温とう(ぬくとう) | 温かい・ぬくもりのある |
| いわんずに | 言わないで・文句を言わずに |
| ちょける | ふざける・おどける |
| まんだ | まだ・これから先も |
| 言わはった/死なはった | 言われた/亡くなられた(尊敬の助動詞「はる」の活用) |
| 死んでまわはった | 死んでしまわれた(自死を惜しむ敬意をこめた表現) |
| どもならなんだ | どうにもならなかった・たまらなかった |
| 悪デッチ | やんちゃな小僧・わんぱく小僧(「でっち」は丁稚から転じ、飛騨では悪ガキの意でも使われる) |
| じさま/ばばさま | おじいさん/おばあさん(飛騨地域の年配者への親しみのある呼称) |
まとめ
飛騨の山里に生き、春風のように子どもたちを愛したN先生。黒板に刻まれた「命をたいせつに!」という言葉は、半世紀を超えてもなお、教え子たちの胸の奥で静かに息づいています。ワラビやゼンマイの萌える里山、川底でぱくぱくと口を動かす小魚——先生が愛した飛騨の風景とともに、命の重さと絆のかけがえのなさが伝わってくる物語です。「いっしょに化石になりてえです」——その一言に、すべての想いが宿っています。









